岐阜聖徳学園大学 岐阜聖徳学園大学短期大学部

法話 第45号 平成28年6月・7月発行

自然(じねん)なるいのちの真実

譲 西賢

 本年4月14日午後9時26分の前震に続く4月16日午前1時25分の本震が、ともに最大震度7という平成28年熊本地震が発生しました。被災された皆さまには、心からお悔やみ・お見舞い申し上げます。地球に住まわせてもらっている人間にとって、地震は避けることのできない地球の活動です。火山の国である日本は、歴史のなかですべての地方・地域が、地震に見舞われているのではないでしょうか。本学があります岐阜県美濃地方も、1891年10月28日の濃尾大震災に被災し、多くの方々が亡くなっておられます。

 地震は無くすことはできません。地球で生きていくかぎり、地震を受け入れ地震があることを前提に生きていくしかありません。地震に倒れない建物や倒れても危害が及ばない建物を工夫して生きていくしかないのです。地球といういただきものの星で生きていくということは、そういうことです。同じことが、人間といのちの関係にもいえると説いているのが、仏教という教えです。この自分といういのちは、いただきものです。具体的な生き様は、縁となって届けられます。この縁は、自分では作れないものです。届けられる縁が自分といういのちであって、都合のいい縁を作って自分になることはありません。

 生老病死も愛しい人と別れる愛別離も、人間である限り必ず遭遇する縁です。人間の思いに照らせばあってほしくない縁ですが、これらを遠ざけようとする生き方は、必ず虚しい結果になります。これらは、必ずやってくることですから、受容する心をもって、それまでにできることをしておく生き方しか人間にできることはありません。かといって、これらはいつ届いてくるかわかりません。明日かも知れません。ですから、仏教では、已今当の「今」が強調されます。已今当とは、過去・現在・未来を指します。いつの時期においても、「今」信心を得る生き方が願われているのです。とは言いましても、自分の念い(思い)と一致しないいのちの真実が届くとということは、この上なく辛いものです。

 先日、私の身の上にもこんなことがありました。私は毎週木曜日、京都のある大学へお手伝いに行っています。新幹線と地下鉄を乗り継いで行くのですが、先日、その地下鉄で、私は人生における初体験を味わいました。京都駅で地下鉄は結構混み合いますから、その日もいつものように座席には座れず、つり革につかまって立っていました。電車が走り始めてすぐに、私のすぐ前で座っていた20代と思われる女性が、私と目があった瞬間にサッと立ち上がって、「どうぞ」と私に席を譲ってくれました。私は、思わず左右を見渡しましたが、皆、若い人ばかりで、その女性は、優先席でもない普通の座席で間違いなく私に席を譲ってくれたようです。戸惑いながら、口をもぐもぐ片言のお礼を言ってその席に座りましたが、席に座れた喜びよりも、63歳の私には席を譲られたショックの方が大きかった気がします。

 人間の心は、それでも強いものです。私はショックから立ち直るために、動揺を隠して、「彼女は、きっと私がお手伝いしている大学で、私の授業を聴講している学生に違いない。だから、私に席を譲ってくれたのだ」と仮説を立て、私は、「座席を譲られるほどの老人に見られた訳ではない」と自分に言い聞かせました。それからは、「どうか、この女性は私と同じ大学の駅で降りてくれ」と、祈る思いでその女性に注目していました。ところが、その女性は、その3つも手前の駅で降りていかれました。どうやら、客観的に私は、若い女性からは、席を譲りたくなるような老人に見えるようです。

 親鸞聖人は、お手紙のなかで「自然というは、自はおのずからという行者のはからいにあらず。然というは、しからしむるということば、行者のはからいにあらず。如来のちかいにてあるがゆえに法爾という」と書いておられます。私といういのちは、如来から縁となっていただいているから、私たちの努力や忍耐で思い通りになるものではないということです。でも、このことは、頭でどれだけわかっていても、思いに反した真実が届くと、とても辛いということです。老いを受容することを体感することは、とてもとても辛いことだけれども、それを如来さまは承知のうえで、私に必要な縁をくださっているのです。

 熊本大地震に被災された皆さま、とてもとても辛く大変です。地球は人間のものではなく、地球の上に人間が住まわせてもらっています。このことは、まさに自然です。私が老いを教えてもらったのと同じく、熊本の人たちだけではなく地球上のすべての人間が、いのちの真実を受容するには、辛い涙を流さなければならないこともあることを教えていただいたのです。