岐阜聖徳学園大学 岐阜聖徳学園大学短期大学部

法話 77号10月・11月 発行

観音菩薩

蜷川 祥美

インドで誕生した大乗仏教が、シルクロードを通って、中国、朝鮮半島、日本に伝わりました。大乗仏教では、その目指すべき理想の存在を示すため、さまざまな仏(如来)や菩薩(成仏を目指す修行者)が説かれるようになります。仏の中で最も信仰されたのが阿弥陀如来であり、菩薩の中で最も信仰されたのが観音菩薩でしょう。
 観音菩薩には、観世音菩薩[かんぜおんぼさつ]、観自在菩薩[かんじざいぼさつ]、救世菩薩[くせぼさつ・ぐせぼさつ]などさまざまな別名があり、大慈大悲(大いなる慈悲)を本誓(根本の誓い)とすると言います。
 『観音経』と呼ばれる経典があります。『法華経』の中の「観世音菩薩普門品」という章を一つの経典としたものです。観音菩薩が、人々のさまざまな苦悩の声(音)聞いて(観察して)、それらを救おうとします。人々が観音菩薩の偉大な慈悲の力を信じ、その名前を念ずれば、苦しみから解放されるというのです。
 『般若心経』は、観音菩薩が舎利子[しゃりし]という仏弟子に、般若波羅蜜(智慧の完成)を目指して修行した成果を教えるという内容です。この世のあらゆるものには固定の本体も性質もないという空の教えを学び、執着してはいけないという教えが説かれています。ものに執着すれば苦が生まれますので、この教えを学ぶと苦しみを乗り越えることができるのです。
 阿弥陀仏信仰が説かれた『観無量寿経』には、観音菩薩が、勢至菩薩とともに阿弥陀如来の脇侍として登場します。観音菩薩が阿弥陀如来の慈悲のはたらきを助け、勢至菩薩が智慧のはたらきを助けるのです。観音菩薩は、阿弥陀如来の浄土にいて、往生したものたちの上首(リーダー)となり、仏教の真理を説き、人間の罪を取り除く教えを伝えたり、阿弥陀仏や勢至菩薩とともに迷いの世界に現れ、その名前を聞くものの罪を取り除き、浄土へ導くのだともいいます。
 ところで、観音菩薩は等覚の菩薩といって、仏とほぼ同じ悟りを開いた存在であるとされます。いつでも仏と成れるのですが、あえて仏とは成らず、菩薩のままでいようとする大悲闡提(だいひせんだい)の菩薩だとも言われます。常に人々と親しく接し、勝友(すぐれた友人)として、大慈大悲の実践をし続けたいのだとの本誓をもつのです。
 仏と成るという自らの目標をあえて封印し、人々の側にいて、その苦しみを取り除く活動を続ける菩薩なのです。
 仏教では、人間の究極の理想は、仏と成ることであると説かれていますが、それが実現すれば思い通りに人々を苦悩から解放できるのだといいます。しかし、仏と成ることは、自分自身の利益の実現に過ぎないと思い、あえてそれを選ばず、人々に近い存在として、その苦悩を救うという活動を続けていくという生き方は、修行者の一つの理想を示しています。
 多くの人々とのつながりによって生かされている私たちは、そのつながりを大切に思い、他者が苦しんでいれば、その声に耳を傾け、救うことを目指す生き方を目指すべきではないでしょうか。生きている限り、完璧な人格となることや、完成された行動をすることは困難ですが、遙かな理想に向かって努力し続ける姿勢を、観音菩薩から学ぶのです。

 中国や朝鮮半島、日本では、観音菩薩の心がつくりだした世界を補陀落浄土(ふだらくじょうど)と表現しますが、それが実在の場所であるという信仰が生まれたり、多くの人々の苦悩の声を聞いて、その救済を行った実在の人物を、観音菩薩が示現した方であると尊崇する信仰が生まれたりしました。
 聖徳太子には、一度に10名の方の訴えをお聞きになったという伝説があります。親鸞聖人は、聖徳太子のことを観音菩薩が示現した方だと尊崇されていました。他者の声に耳を傾け、その苦悩を救いたいと行動し続ける人を尊敬します。