岐阜聖徳学園大学 岐阜聖徳学園大学短期大学部

法話 78号12月・1月 発行

自分だけが幸せでいいのでしょうか?

西川 正晃

「あぁ、幸せだなぁ」と声が出る瞬間があると思います。それはあなたにとってどんな瞬間なのか思い浮かべてみてください。私自身、ちょうど昨日その声が出た瞬間がありました。

この日はお腹が減っていて、夕食がいつも以上に待ち遠しい日でした。家に帰ると、私の大好きな餃子が、私好みの焼き加減で、しかも、熱々の状態で卓上に用意されていました。冷蔵庫には、お気に入りのビールが冷えています。餃子が冷めないうちに、急いでビールをグラスに注ぎました。これで準備万端です。「いただきます」の合掌の手のひらを解き終わるか終わらないうちに、餃子を口にほおばり、ビールを流し込んだその後に、「幸せだなぁ!」という声が出ました。

何とも安っぽい幸せかもしれません。それでも私にとっては、至高の幸せの瞬間でありました。誰にでもある日常の風景かもしれません。でも、このありふれた幸せの風景は、全部が自分中心なのです。餃子やビールは、私にとっての大好物です。しかも、私が一番気に入っている焼き加減であり、ビールの銘柄です。さらに、私の帰る時間にあった調理だったから、熱々の状態をいただくことができたのです。何よりお腹が減っている状態は、おいしいに決まっています。全てが私にとって都合がよかったからなのです。ここで私が感じる幸せは、私の基準で決まっているのです。もし、お腹が減っていなかったり、私の嫌いなメニューであったり、餃子であったとしても冷めていたり、ビールがなかったり冷えていなかったり、何か一つでも欠けていたりしたら、「幸せ」という言葉は出てくることはなかったでしょう。

岐阜聖徳学園大学は、「平等」「寛容」「利他」の大乗仏教の精神を体得する人格の形成をめざしています。この中の「利他」とは「自利利他円満」のことで、私たちがいかに幸せに生きることができるのかを導いてくださる言葉でもあります。親鸞聖人は、ご和讃に「自利利他円満して 帰命方便巧荘厳 こころもことばもたえたれば 不可思議尊を帰命せよ」(『浄土和讃』讃阿弥陀仏偈和讃35)と詠まれました。幸せとは、好き嫌いなど自分の価値観で判断していくものではなく、みんなが本当に喜べる世界を「自利利他円満の世界」と親鸞聖人は表現されました。人間は、決して一人では生きられませんし、一人で生きているつもりでも、多くの人にいろいろな影響を与えています。お互いがかかわり合って、生きているのです。そのような関係の中から生まれる「幸せ」とは、自分の幸せ(喜び)が、他人の幸せ(喜び)にもつながり、他人の幸せ(喜び)が、自分の幸せ(喜び)にもなるのです。

「自分だけが幸せでいいのでしょうか?」の問いを考えると、この言葉自体とても矛盾していることに気づかされます。「自分だけが幸せ」ということはあり得ないのです。自分が幸せであるならば、他の人も幸せでなければ、それは幸せではないのです。自己満足に陥っているだけなのです。自己満足に陥っているあり様を、親鸞聖人は、「凡夫」であると言われました。私たちは、まさに阿弥陀如来に照らされる中、社会の現実に向きあって進むことで、あらためて「凡夫」として不十分、不完全であることを知らされるばかりです。そのことを自覚しつつ、少しでも他者の喜びを自らの喜びとする生き方を願いとして、歩んでいきたいものです。