岐阜聖徳学園大学 岐阜聖徳学園大学短期大学部

法話 79号2・3月 発行

不易流行-念仏のみぞまこと-

河智義邦

コロナ禍(新型コロナ感染状況下)となったこの数年で、多くのこと(もの)を失いながらも、多くのことを学ばさせていただき、気づかされたように感じています。それは決して無理にそう思うことで、この状況の中で何かしらの意味を見いだし、この難局を乗り切ってやるぞと力んでいる訳ではありません。具体的にどんなことについてそう思うか教えて下さい、と尋ねられたら、何からお答えしていいか分からないほどに、公私にわたってそのように思うことが多いのです。
 さて、講題に掲げました「不易流行(ふえきりゅうこう)」という言葉をご存じの方も多いと思います。ある辞書によると、これは晩年の松尾芭蕉が、蕉風俳諧の本質をとらえるための理念として提起したものが出典となっている言葉です。「不易」は時代の新古を超越して不変なるもの、「流行」はそのときどきに応じて変化してゆくものを意味します。なかなかに深い意味があるのですが、これを我田引水して、私流に平たくいうと、世の中には変わらぬものと、変化してゆくものとがあるということです。私たちの生活の中にも、変わらずに守ってゆくべきものと、時代の流れの中で変わらざるを得ないものとがあります。
 一例として、私が身を置く伝統仏教の世界では、それこそ伝統を重んじることが大切にされていて、それを崩すことはけしからんことだと教えられてきました。例えば年間の行事の日程や営み方などです。儀式儀礼というのは、決まった手続きを踏んで行うことが大切にされてきました。それはそれで意味があることだと思っています。
 しかし、コロナ禍にあっては、それらは変更を余儀なくされることも多く、誰しもが「仕方が無いよね」ということで、長年続いてきた行事をとりやめたり、手順などを省略して営むことになりました。ところが、そうなってみると、案外違和感なく進めることができることも多くあって、いままで頑なに、「そうしなければならない」と力んできたことが、「なんだったんだろう」と思うこともあり、お手伝いして下さる世話役の人たちも、「これはこれでできますね」という感想を述べる人も少なくありませんでした。そうなんです。私を含め、みんな「不易」を勘違いしていたのです。昔ながらのやり方を頑なに守ることを不易と思っていたのです。親鸞聖人は『歎異抄』の中で
  火宅無常の世界は よろずのこと みなもって そらごとたわごと まことあること  なきに ただ念仏のみぞまことにておわします
と仰っています。世の中(これは私の体の変化も含みます)は変化してやまない。私たちはその変化に対応して、生きていかなければなりません。でもそんな世の中にあっても、念仏のみ教えだけは、変わることない真実であると言われています。これは聖人が念仏の教えのみが絶対的に正しくて、他の仏教宗派の考え方が間違っていると仰っているのではありません。そういう独善的な思いを述べたものではないのです。聖人にとって念仏とは、煩悩具足の凡夫である自分を真実に導いてくれる唯一の教えであり、聖人にとって仏教の教えは念仏に集約されているのです。要は「仏教のみ教え」は真実であるという意味になります。宗教学者の中村了権先生は、『親鸞仏教の宗教力』の中で、
  私という現存在は、因縁生起によって仮に形あるものとして在るだけで、いま私に及  んでいる恵まれている因縁の働きが尽き果てれば、本来のいのち在り方であるゼロに  なるという厳粛な事実の中に、自身は生かされている。そういういのちの自然(じね  ん)な在り方に目覚めて、現在を生きるありがたさ、もったいなさを実感する。
と述べておられます。37兆もの細胞の集合体で、新陳代謝して変化しつつ、さらに他から酸素や水、栄養分を摂取しないと生けていけないのが、私たち人間の「いのちの真実」です。この真実は誰にも当てはまる、古今東西において変わることない不変、そして普遍の事柄なのです。まさに「不易」なんです。この真実を折々に聴聞させて頂くことこそ最も肝要なことであって、長年続いてきた行事もこの教えをいただくためにあったのです。ですから、その在り方は時代や社会の情勢によって変わってもよいです。大切なのは、その「いのちの真実」を教えてくれる仏教の教えをいただくことにあります。
 どんなに世の中が移ろい、人の生き方が変化しても、この教えをいただくことは、大切にしたいと改めて気づかせてくれたのが、コロナ禍であったのです。